2025年7月30日、Amazonプライムの見放題で独占配信がはじまった映画『教皇選挙』。
この記事は、映画を観て心に残ったことを、信仰的な視点からではなく、あくまでも映画と絵画を通して感じた「人間の内面の変化」に注目しながら綴りました。
解釈の一例としてお読みいただけたら嬉しいです。
なお、ネタバレを含みますので、この作品をまだ観ていない方はご注意くださいね。
一筋の光とカメの存在
この映画でわたしの心に残ったのは、薄暗いシスティーナ礼拝堂に差し込んだ一筋の光と一匹のカメでした。
神の光は誰に降り注ぐのか?
映画の後半、主人公ローレンスが自分の名前を記した投票用紙を投じようとした瞬間…
爆発音とともにシスティーナ礼拝堂の天井付近の窓が割れ、右側から光が差し込み、衝撃で倒れ込んだローレンスを照らしました。
このシーンを観たとき、頭に浮かんだのは一枚の絵画でした。

Michelangelo Merisi da Caravaggio, The Calling of Saint Matthew (1599-1600)
カラヴァッジョ《聖マタイのお召し》です。
画面右から斜めに差し込む光、キリストの指先は誰を差しているのか。
選ばれたはずのマタイはどの人物なのか、議論が続いている作品です。
この光はもしかすると…
「選ばれた者」にさすのではなく、「変わろうとする者」あるいは「気づいた者」に向けられた神からのサインなのではないでしょうか。
カラヴァッジョの絵と映画のあのシーンの光が、わたしの記憶のなかで強く重なっていました。
神の沈黙に苦しみ、自らの信仰に揺れながらその場にいたローレンス。
彼が、自分の名前を書いた投票用紙を投じた瞬間に、「それは違う」とでもいうかのように窓が割れ、降り注いだ光。
神の怒りか、警告か、それとも慈しみか。
少なくとも、あの光の中で、自分は選ばれていないこと、神がそこに「いた」ことにローレンスは気がついたのではないでしょうか。
つまりそれは「選出のしるし」ではなく、「あなたの中に、まだ神はいる」と語りかけるような啓示の光だったように思うのです。
カメの存在が伝えること
もうひとつ、心に残ったのがカメたちです。
ベニテスとローレンスの間で、カメについて語られた会話の内容をまとめてみました↓
- 亡くなった教皇は、アンゴラから贈られたカメを大切にしていた
- ベニテスの故郷では、カメは「癒しと変容」の象徴
- 噴水にいるカメたちは、よく逃げ出し、車にひかれてしまう
それは「変わろうとする存在」が無理解のなかで踏みにじられる現実を映しているようにもみえます。
カメを戻すという行為
映画の終盤、一匹の逃げたカメをそっと抱き上げ、静かに微笑みながら噴水へと戻すローレンス。
その瞬間、新教皇が決まったことを告げる白い煙が立ちのぼり、外から聴こえてくる歓声。
自らが「選ばれなかった」と知りつつも、新たな教皇を支えようとする静かな決意。
同時に、ローレンス自身がもういちど聖職者としての自分自身を取り戻した「再出発の儀式」のようにもみえました。
おわりに
この映画でわたしが心を動かされたのは「もう一度信じてみる」ことを選んだローレンスの姿でした。
一匹のカメを大切に運び、そっと噴水に戻す姿。
そこには誰かに認められることよりも、自分自身ともう一度向き合うことの尊さがあったように感じます。
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